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1996年6月
当時一般庶民は白酒と呼ばれるものを呑んでいたらしい。その白酒というのは呼んで字の如く「白い酒」、今で言えば濁酒(ドブロク)である。
歴史上から見ると、御園竹便りのNo.12でもふれたが、清酒という澄んだ酒は慶長年間に初めて出来たと言われている。摂津伊丹に鴻池善衛門という酒造家があり、あるとき職人が酒に灰を入れたところ、翌日になったら酒がきれいに澄んでいた。鴻池善衛門はこの方法で清酒の作り方を知り、膨大な利益をあげ富豪になったという正史がある。
その慶長という年代は1596年から1614年の間で、家康がやっと将軍になる頃である。それから見ると、信長や秀吉は清酒が発明される直前の時代である故、信長たちが口にしたのは、今のように澄んだ酒だとは思えない。だから、テレビ場面で、細い口をした銚子から上品にチョロチョロと酒を注いでいるのはおかしく思える。
ところで、ドブロクを呑んでいた信長や秀吉、家康の三人とも酒は大変好きだったようである。その三人の中では信長が一番強かったと言われている。
テレビの中で、髑髏(ドクロ)の盃のシーンを記憶された方もあろう。正史によると、それは天正二年の正月との事である。岐阜城での正月の宴の際に、金箔で飾った髑髏の盃の酒を諸国大名に呑むことを強いた。無理強いされた下戸の明智光秀は、今で言う大変なイジメにあったと言うべきであろう。それを見ると信長は酒乱であったのではなかろうか。
秀吉も酒が好きだが、ちょっとばかりの酒で良いきげんになる、にぎやかな酒飲みだったらしい。これはドラマでの通りだ。
家康も相当呑んだらしいが、おもしろい話は伝わっていない。むしろ酒より女性の方に興味があったと言われている。
秀吉の養子の関白秀次は酒乱のために秀吉の怒りをかって死ぬこととなった。それが大阪城の落城の遠因だという人もいる。川中島合戦の上杉謙信と武田信玄はかなりの酒豪であったといわれる。
激烈な戦国時代に生き残るにはそれなりの酒の呑み方が必要で、それなりの苦労もあったと思われる。
有名な「黒田節」は酒にまつわる次のような実話から作られた。黒田長政の家臣の母里太兵衛は、主命で福島正則の所へ使者として参上した。正則を相手に槍を賭けて、一升の大杯を三杯平らげ、この槍を得たという話である。この槍は、名を日本号と言い、正親町天皇が信長に贈られ、秀吉から福島正則へと伝えられたという名槍である。
歴史を見ると、昔の大酒呑みは二升三升は平気で呑んだようであるが、昔の酒はいまよりずっとアルコール分が少なかった。だから一升呑んでも大丈夫だったと思われる。とはいえ、大酒呑みであることには違いない。
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