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1997年7月
今年も再び梅雨の季節がやってきた。この時期から夏にかけては、様々な細菌が繁殖しやすい時期であり、食品は十分気をつけなければならない時期である。日本酒にとっても、日本酒がいつの間にか白く濁る「火落(ひおち)」という事故が発生しやすい時期で、酒造メーカーにとっては、常日頃そのようなことの無い様に、瓶詰め行程の隅々まで気を配っていることが試される時期でもある。
日本酒が他の食品と大きく違う点は、アルコールを含んでいるという点である。「アルコール消毒」があるように、細菌のほとんどはアルコールを嫌う。そのため、他の食品と較べて、細菌が繁殖し難いという点では非常に安全な食品である。
しかし、日本酒にとっても一つだけいやな細菌がある。それは「火落菌(ひおちきん)」という珍しい名前の細菌で、この菌は乳酸菌というどこにもある菌の仲間であるが、日本酒を好んで生育する。火落菌が日本酒に入ると、濁ってくるのはもちろんのこと、酸っぱくなったり、変な臭いも出て来て、まずくて呑めなくなる。
昔は日本酒の容器は木の樽や桶だったから完全に殺菌ができにくい。そのため、火落ち菌に侵されて大損害を被むる事も多かった。戦前は火落により酒が全てだめになって倒産した蔵も結構あったようだ。
火落菌はアルコール度数の低いときに発生しやすいのだが、まれには二十%もある日本酒に発生することもある。まさに細菌の中では、アルコール依存症細菌「アル中菌」とも言えるものである。
幸いなことに、この火落菌は熱には弱い。六十℃程度の温度で死滅してしまう。火落ちを防ぐために、昔から日本酒とは「火入れ」という事が行われている。それは酒の味を損なわない程度の低い温度に酒を熱して、酒の中の乳酸菌類、その中でも特に火落菌をやっつけるという高度の技術である。
この火入れという技術は明治になってからその理論が解明されたのだが、江戸時代にはすでに行われていたようで、1684年に出版された「童蒙酒造記」に記載されている。明治になってからは東京大学でも研究が行われていた。この火落は日本酒ばかりに発生するのではなく、ワインの大敵ともされており、その研究が日本で初めて行われたということは、世界に誇るべき事である。
さて、火落菌の出す「火落酸」と呼ばれる物質が、アメリカのメルク社のメベロン酸と同一物質である事が発見されたのは、つい最近、昭和三十一年の事であった。この物質は、人間が生きていく上で非常に重要な物質の素材であり、人間の体の中で各種ビタミン群を作り出す際に使われているという事が、その年になって初めてわかったのである。
この大発見を引金に、ヨーロッパでは火落酸とメベロン酸、さらにそこからコレステロールとの関連の研究が急速に進んだ。その研究者から三人のノーベル賞学者が出た。残念なことに我が国の研究体制が不十分であって欧米に後れを取っていたため、我が国からそのノーベル賞学者が生まれなかったのは残念である。
しかし、日本酒の酸や酒母の発育のために、火落ち菌の研究は我々にとって真剣な研究課題であり、火落ち菌のいない健全な酒母やもろみから立派な御園竹を造る事、そして出荷後に火落を起こさない様に出荷管理をすることが、当社の課題なのである。
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